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「先生」と呼ばれること 

前にも書きましたが、私は前職で学習塾の雇われ講師をやっておりました。

入社して、初めて上司から「○○先生」と呼ばれたとき、
私はドキッとしました。
そこには嬉しさもあったのですが、自分が先生と呼ばれることに、
何か違和感を感じたからです。

それ以前、私は小売業に7年ほどいたので「頭を下げること」が
板についていたせいもあったと思います。

私としては「次代を担う子供たちの、基礎を培うことに貢献したい」という
思いがありました。

そういう面では確かにやり甲斐のある仕事でしたが、
「先生」と呼ばれる人達の実態も垣間見てしまいました。

具体的な記述は避けますw

学習塾は民間企業ですが、通ってくる生徒さん達からは
小中学校の先生達の、「スゴイ話」も随分と聞くことになりましたw

学校を出てから、社会経験もないのに「先生」と呼ばれる人達が、
如何にズレているかというのは、意外に知られていないと思います。

最近では「モンスターペアレント」みたいなのも
話題になっていますが・・・・


教師に限らず、医者、弁護士、政治家、芸術家など、
どんなジャンルでも「先生」と呼ばれることには
道を外す誘惑が多いです。

肩書きが付かなくても「教える」「救う」系のことは
同様だと思います。

人に「ありがとう」と感謝されることは嬉しいことです。
他人の喜びを自分の喜びとし、
そこに自分の存在価値を見出す方もおられるでしょう。

私はそこに優越感が入ってしまうことに気をつけたいです。
自分を他人よりも高いところに位置づけることに
喜びを感じてしまう、という誘惑です。

現代の競争社会では「人の上に立つのは良いこと」と認識されている
人が多いと思いますが・・・・


優秀な人、アタマの良い人達はつい、「自分が正しい」と
思ってしまうようです。

自分が正しいと思うほど、自分の間違いには気付くことが出来ない道理です。

そして「断言する」「他人を裁く」「他人を見下す」ということが
多くなります。

だから常に「自分は正しいだろうか?」と疑問を持ち続けることが
大事ではないかと思います。

「不思議なチカラ」は主に潜在意識の領域にあると思います。
心理学で言う「集合的無意識」には自他の区別が無いようです。

だから「オレが自分が」という我を削り、謙虚に「身を低くする」のが、
神と呼ばれるような「大いなる存在」に応援してもらうコツではないかと、
私は思います。


私にもかつては、某匿名掲示板で
「自分には不思議な能力があるんです」みたいなことを
意識して書いていた時期がありました。

そしてまた、先に書いたように、
「先生」と呼ばれて嬉しかった頃もありました。

それは必要な通過点だったと思っています。

そこには、お世話になった霊能者さんとの出会いなど、
有意義な出来事も多々ありました。
だから否定はしません。
振り返ると恥ずかしいことも多いですがw


今はその先の、「私は誰でもない」という境地を目指しています。
そこに「本当の自分」「真の自由」がある気がしていますので。

だから私には名を売る意志はありません。
有益な情報を交換できる仲間が増えるのは嬉しいですが・・・・

最近、アクセス解析を見ると、訪問者の方が急激に増えている日があります。
ありがたいという感謝の気持ちと同時に、少々複雑な心境になったりしています(´・ω・`)

言葉の重さ 

新緑の季節となりました。
私の大好きな名草の山も色鮮やかになってきています。
新緑のモミジ

冬の間はほとんど貸しきり状態で、
毎回、せいぜい2、3人の人と行き交う程度でしたが
昨日は行楽客も多く、結構賑やかな感じでした。

花粉症の季節ももうすぐ終わりですね。
今年はティッシュペーパーの使用量も通常の時期と大差なく済んでいますw

3月8日の記事に書いたようなことを実践してきた成果か、
どうにかやり過ごすことができそうです^^


さて、今回は「言葉の重さ」ということで考察してみました。

聖書には以下のような記述があります。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

私が最初にこの文章を知ったのは「飛鳥情報」からなんですが、
これはそのまま、文字波動が優れた効果をもたらす秘密なんじゃないか
と思っています。

古の時代には、言葉にはもっとパワーがあったのかもしれません。
時代とともに、人々の心が「神なるもの」と離れて行くにつれ
そのチカラが弱まっている気がします。

現代はどうでしょう・・・・
人々の心が「神なるもの」に回帰しようとする流れが
確かにあると思います。

私はその流れに乗りたいです。


文字波動のパワーの源泉が「共通認識」であるならば、
誰が文字波動式を作ってもそのパワーは均一かもしれません。

ただ、効率よくパワーを受け取り、効果を得るためには、
言葉を「素直に」受け取る必要があると思います。
「素直さ」はひとつの重要なポイントだと思います。

この「素直さ」は潜在意識のレベルにまで要求されると思います。
そのためにも地道な浄化をオススメしたいです。


あとは、普段から言葉を大事にすると良いでしょう。

言葉は、人によって「重さ」が違うと思います。

私は思考速度が遅い方だと自覚していますが、
それでもなるべく言葉を慎重に選び、文章を書くときには
推敲に推敲を重ねるようにしています。

普段の生活においても「不言実行」「有言断行」を心がけています。

まあ私の場合、もともと虚弱で体力が無いもんですから、
「おしゃべり」も意外に疲れるのをカラダが知っています。

言葉のエネルギーは「ここぞ」というときだけに使うほど
効果的な気がします。

そんなこともあって私は「背中で語る」ような人物でありたいと
常々思っています。

ブログを「背中で語る」のはサスガに無理がありますが(爆

火の力 

最近、Purple.Cさんが火を使った加持祈祷のようなことを
採り入れ始めたそうですね。

今まで手こずっていた霊障などに
優れた効き目を感じているとのことです。

まだ試行錯誤の段階だそうですが、
具体的なやり方は「神秘のお部屋」の「波動改善法」「カタシロ」の頁
「悩み事を解決するマジナイ」として書かれています。


実際、火は様々な宗教的な儀式や加持祈祷に用いられています。

誰にでも行える、身近なものとしては神社の人形(ひとがた)があります。
人形に名前を書いて、息を吹きかけ、自分の罪穢れを転写して
「お炊き上げ」してもらうことで波動を改善できます。

密教系のお寺では護摩木に名前と願い事を書いて
護摩壇の炎に投じる、というのもありますね。


火には浄化の働きと、この世、物質世界にあるものを、
俗に「あの世」と言われる「エネルギー」の世界に送る働きがあるようです。

あとは想念を増幅する作用のようなものを感じます。


仙道の高藤本に載っていたのですが、
中国では亡くなった方があの世でお金に困らないようにと
金紙というものを焼いて「仕送り」するそうです。

不思議研究所のもりけんさんの本にも
似たような記述があったと思います。

いずれも本物・実物ではなく
オモチャ、ミニチュア、写真だったりするようですが・・・・

霊的な、「エネルギー」の世界では、
想念がそのまま現実なんだと思います。
だから本物をイメージしやすいように写真やミニチュアを使うのでしょう。


PH会の製品にも火を使うもの、お香があります。

実際に使ってみると、CD、ノパル等の他の製品と比べて
パワーというか、切れ味は凄いです。
時間は短いですがw

グッズを自作出来る方には是非お試しいただきたいですね。
100円ショップなどで売っている安物で十分です。

私の感覚では、高級なお香を使った方が
なんとなく「波動のあと味」みたいなものが良い気がしますが、
(何故か背中で感じます)
安いものでも効果は体験できると思います。


そもそも、家庭の仏壇などで使われるお線香の、本来の意味というのは
そういうものだったのかもしれません。

ただの形式としてではなく、
1本1本に供養の気持ちを込めた方が、ケタ違いに良いと思います。
葬儀などでご焼香するときにも、シッカリと気持ちを込めたいと思います。



火を使うマジナイは強力です。
一応注意点を書きます。

「波動グッズの危険性」という記事にも書きましたが、

強い力の行使にはリスクと責任が伴います。

また、方向性を間違えている人が強い力を持つと
間違えた方向に加速してしまいます。
ブレーキが効かなくなってしまいます。

あと、火の扱いにはくれぐれもご注意ください。
加持祈祷が火事になってしまってはシャレにもなりませんのでw

最善の選択 

(○○○○は常に最善の選択をする)×最適回数

(○○○○は常に最善の行動をとる)×最適回数


最近、私が気に入っている文字波動式です。
この式に関しては他人に施してもあまり問題ない気がしています。


「最善」とは辞書的に言うと、

1 いちばんよいこと。いちばん適切なこと。
2 できるかぎりのこと。ベスト。

となります。


この文字波動式の利点は、過去を悔やむことが無くなるところにあります。

普段の仕事や生活の中で、
一見、失敗と思えるようなことがあったとしても、

「これがその時における一番良い選択だったのだ」
「これは、必要な結果を導くために、ワザとそうなったのだ」

と思ってしまえば良いのですw

例え期待した、完全な結果が得られなかったとしても、
より良い、モアベターであれば、いつかは辿り着く。
「自分は『最短距離』を進んでいるのだ」

と思ってしまえば、マイナス想念を出さずに済みます。


善悪の判断というのは深く考えるとナカナカ難しいものです。

私は「少数派」を自認していますので、
多数決が必ずしも正しい答えを出すとは思っていません。

不完全な人間が作った法律というのも、絶対視できるものではありません。
(無くては困るのも事実ですが)

世の中には「自分は正しい」と思い込んでいる人が多いです。
そういう人ほど他人を裁きます。
コレを「独善」と言います。

しょせん、善とか悪とかいうのは、
不完全な人間が作り出した概念、イロメガネなんだと思います。

まあ私も時代劇や特撮ヒーローのような
「物語の中での正義」というのは大好きですけれどw


難しく考えるとキリがないですが、「不思議」を活用出来る人は幸いです。
広い視野を持っていますから。

PH会ではこの判断基準として
「偉大なる流れ」というのを想定しています。
「人智を超えたエネルギー」に任せる、というスタンスです。

文字波動の場合は、Pさんによると
「共通認識」によって判断されるようなので
「多数決」に近いかもしれません。
それでも「皆に善かれ」という性質はあると思います。

私なりには文字波動というのも一種の「エネルギー」だと思います。
潜在意識に働きかけたり、運勢的なことを扱えたりもしますので。
だから、心理学で言う「集合的無意識」に似たレベルでの
共通認識というか判断基準があると思います。


結局は「おまかせ」で良いと私は思います。

そうやって、心に余裕が出来ると
安心感、幸福感が増えてくるように思います。